朱喜哲さん×三宅香帆さんスペシャルトーク(5)書くこと・文体・スタイル
令和8年4月に発行した「ほんのわミニ」。
「本のまち八戸ブックフェス2025」で開催した哲学者・朱喜哲さんと文芸評論家の三宅香帆さんによるスペシャルトークイベント「本と読書と書店〜私と世界をつなぐもの〜」の特別ダイジェスト版を誌面に掲載しました。
私的なものと公共的なもの、そしてそれをつなぐ本や書店の役割について、さまざまな角度からお話ししていただきました。
ここではお二人の対談完全版を、7回の連載記事としてご紹介していきます。
■スペシャルトークイベント
本と読書と書店〜私と世界をつなぐもの〜
書くこと・文体・スタイル

朱 喜哲さん(以下朱):三宅さんは、新しいアジェンダ、論点を設定してくださる人だと思います。大ベストセラーになった『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で提唱された、「全身全霊で働く生き方ではなくて、半身で生きる、そうして本も読める社会にしよう」は典型的です。あの本は、明治以降の日本の労働と読書の歴史を追った、ある種の歴史書であると同時に、アジェンダセットの本であり、アジテーションの本でもある。
この本で三宅さんは、「この本を新書大賞に輝かせて、日本を変えるんだ!」という宣言されて、本当に実現されたわけですね。
この本の刊行時期に書評の依頼をいただいて、「私も三宅さんの描く社会構想に1票を投じたい」、と書きました。私的なモチベーションなんだけれども、公共的なメッセージも発している、このダイナミクスさが三宅さんの面白さだと思います。
三宅 香帆さん(以下三宅):最初から朱さんとは、文章を書くのは公共的な事だ、というお話で盛り上がりましたよね。
自分は文章を書くということに関して、どこか社会みたいなものに働きかけないと意味がないのでは?くらいに思っていて、朱さんもそういうタイプの書き手だなと最初から感じています。
朱:確かにおっしゃる通りで、僕も基本、読むことは内面を獲得することなんですけど、書くことはやはり公刊、外に出すことだから、それは公共的な意味がなきゃ書かないし、まだ日本語で書かれていなくて、書かれるべきだと思うことがあれば、それに適切な文体で書くというスタンスです。最初に書いた商業出版の本『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』はまさにそうですね。
三宅さんの本を読んでいるときもそんな印象を受けたんですよ。この人は自分が書きたいから書くという書き手ではなくて、書かねばならないことがあるんだと思って書いてる人だなと。
三宅:そうなんですよね。自分は本を書くということ自体がどこかちょっと恩返しみたいなところがあって。自分のアイデンティティーは読み手にあるというか……。
批評家ってそういうものかもしれないですけど、読む・書くみたいなところで言うと、読む方が自分のアイデンティティーの7割で、3割くらいで書いているみたいな感覚があります。何で書くのかというと、読んできた本や、読んできた本を生んだ世界への恩返しなのかな…。
自分が読んできたものがここで終わってしまうのは悲しい。私はやっぱり万葉集とか、古典が好きなので、この世界をアーカイブしておかねば、という感覚があります。
朱:三宅さんの本の中では『30日de源氏物語』とか、あれも素晴らしいですよね。古典の読み取りこそ、三宅さんが学術的に鍛えられたテクニックという意味で、その真価が発揮されているものの一つだなと思います。
三宅:嬉しい。古典とか歴史とか好きなので、上から下にバトンを渡す、じゃないですけど、そういうところが自分の本を書くという作業の中に多分にありますね。自分のために書く時間があったら、その分本を読みたいなという感じなので。
書くということ自体が、あまり自分のためではないです。
朱:面白いですね。それは文芸批評家の中でもなかなか珍しいというか。
そのことを「悪口」として言う人がいるからあえて言及するんですけれども、三宅さんってこれほどよく読まれている書き手であり、多作であるにもかかわらず、「これが三宅香帆文体だ!」という、文体がそこまで固定的ではないのが個性だなと思っています。僕自身も文体それ自体にはこだわりがないほうなので、勝手なシンパシーもありつつ。
三宅:朱さんもいつも文体変えようとしていますよね。本によって。
朱:はい。常に変えようとしています。三宅さんの本を読んでいてもそう思うんですよね。これって、この人は「文体」がないとか、「作家性」がないとか、一種のカリスマ感を損ねることかもしれません。でも、三宅さんの作家的な稀さって、やっぱり今の時代にこのテーマでこれを届けるんだという一連の与件と動機があるときに、じゃあ適切な文体は何だろう、というふうに考えていらっしゃるところだと思うので、僕は勝手ながら自分の専門である「プラグマティズム言語哲学」的なところがあるなと思ってるんです。
三宅:へぇ~、初めて言われました。どういうことですか?
朱:この立場からは、言葉というのは私たちがそれを使う「道具」ではあるんだけど、しかし言葉はそれを使うと同時に言葉にも使われてしまうというか、使う言葉によって自分がつくられてしまう面もあるわけですね。
三宅:言葉づかいによって自分が決まってくるという。
朱:はい。先に「内面」があってそれを表現する言葉が出てくるというよりは、言葉があるから内面があるという順番なんですね。もし自分の内面が先にあって、それを正確に発出するんだったら、使うべき言葉、文体は決まってくるじゃないですか。これが私の本当の言葉だ、と。
だけど、どの言葉をセレクトするかによって、自分の内面がコラージュされていくと考えたならば、いろいろな言葉や文体を使い分けることは何も怖くない。それはむしろ自分の中に「ひだ」が増えるというか、吟味できるものが増えるという、豊かなことなんですね。
もしかしたら三宅さんが文体を変えることを恐れないというのは、そういう言語−人間観とも親和性があるんじゃないかと思っています。

三宅:私は2冊目の本『バズる文章教室』という文体論の本の中で、結局伝わらないなと思って削った箇所があったんです。
私、文体って服とかメイクみたいなものだなと思っていて、でもそれってメイクしない人とか、ファッションにこだわりがない方には伝わらない比喩だなと思って消したんですけど。スティーブ・ジョブズみたいにずっと同じ服を着る人って珍しいじゃないですか。職場に行くときはスーツを着るし、家庭にいるときはユニクロを着るし、もうちょっとおしゃれするときはデパートで買った服を着るというのは、当たり前のことですよね。
文体って、それと同じだと思っていて。
こういうときにはこういう文体で、新書を書くならこういう文体で、とか、ある意味届けたい読者に、誰と会うかによって変えるみたいなものに近しいんじゃないかなと思います。
朱:すごく大事ですよね。「本当の自分の文体」を探したり、本当の自分って何だろう?みたいな問いの立て方はあんまりよくないと思うんですね。
どの文体を採用するかで、表現される自分は違うわけじゃないですか。それは別に恐れる必要はないというか、自分はこれしかないんだ、というよりかは、こんな語り方もできるし、こんなふうにもできるし、と考えた方がいいんじゃないかなと思うんです。それがさっきのプラグマティズム言語哲学といった時の発想なんです。
そんな観点から見ても、今回の三宅さんの選書は面白いと思うので、ここからまたいろんな文脈で紹介していただければなと。
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