朱喜哲さん×三宅香帆さんスペシャルトーク(5)書くこと・文体・スタイル 3


朱 喜哲さん(以下朱):読み方がわかる本なので本当に面白いです。そういう発想自体は僕も近いかもしれません。

先ほども文体論で話しましたが、僕も自分がやりたいこととか書きたいものがあったときに、それはどうやったら届くんだろうとか、どんな文体を選ぶんだろうといったことは、書き手・演者としての自分を、プロデューサーとしての自分がディレクションしているという感じがするので、その辺はちょっと似ているかと思います。

 

三宅 香帆さん(以下三宅):服と文体は、私は同じものである気がするんですけど。でもそれこそ本を書いている人があまりに服のスタイルにこだわると、チャラチャラしているって思われるし。

 

朱:文士たるもの、みたいな謎のね(笑)

 

三宅:そうそうそう。でも一方で、ガワといいますか、スタイルの部分が発しているメッセージって、私は意外と馬鹿にできないと思っているんですよ。

どういう文体でものを書くか、それはやっぱり誰に向けて書いているのかを暗黙のうちに伝えている。お店も、それこそ店構えがどうかは、何を提供しているかと同じくらい、実は大事だったりするじゃないですか。入りやすさとか、どういう人に来てほしいかとか、暗黙のうちに伝えている。服もそういうところがあるなと。

 

朱:確かに。三宅さんとか私とか、今日この「本のまち八戸ブックフェス」でエッセイ講座を担当されている今井楓さんとか。いま人文系の書き手の中でも服とか見た目にちゃんと気を使って、それを発信することを衒わない人たちがだと思うんですけれども、僕自身は明確にそう思っていて、やっぱりそこも含めて「表現者」としてコントロールする範疇でしょうと。

特に人前に出るときは、どういう意図でこれを選んだかとか、できるだけ求められれば説明できるくらい考えるんですけれど、この「スタイル」とか「かっこよさ」みたいなものと、本とか書店とか本の文化みたいなものとの関連の話は、ぜひ三宅さんと今日してみたかったです。やっぱりこの八戸ブックセンターも、まずはルックというか外形的な魅力のひとつとして「かっこよさ」はありますよね。

 

三宅:ありますよね。かっこいいですよね。

 

朱:建築物、内装のかっこよさはもちろん、さらに周囲にまちなか広場「マチニワ」、八戸ポータルミュージアム「はっち」があって。建築の力って当然あるじゃないですか。見に行って、そこに身を置きたいなと思えるし、来るたびにテンションが上がる。でも、これちょっと怒られそうなんですけど、あえて言ってみると、僕、本屋さんはかっこよすぎるとだめだと思うんです(笑)

 

三宅:いい話。

 

朱:ある日本一格好いい本屋さん、私も登壇させていただいたりもするし、行くたびにしみじみとかっこいいなと思うんですけども、正直あそこまで建築と空間がかっこいいと、ちょっと本がオブジェめいて見えてきちゃうところがあるとも思うんですよ(笑)。

なんでかというと、これはあくまで僕の私見ですが「かっこよさ」ってやっぱり私的なセンスじゃないですか。趣味とか美的判断ですよね。それはパーソナルなもの。

美的判断の対象物として、美しい、かっこいい、という店構えができちゃうと、そこに並ぶ肝心の「商品」であり、冒頭から繰り返しているように「公刊物」である本までが、どうしても趣味的・美的な判断の対象物に見えてきてしまう。

本屋さんはバキバキにかっこいい!じゃなくて、何か隙がないと、あるいは、あえての公共っぽさとかがないと、よくないんじゃないかという直感があって。

僕の中で八戸ブックセンターさんは限界ギリギリまでかっこいいです(笑)

本屋としての隙がある範囲内では、これ以上かっこよくすると、ちょっとまた違うバランスになるかもしれない、という感じがあるんです。

 

三宅:わかる!私はこの1年半この話しか考えていなかったと言っても過言ではない!美的であるというのが個人的である、というのはすごく納得しました。

私の好きな小説の一つに、山本文緒さんの『自転しながら公転する』という小説があるんです。服屋さんで働いている子の話なんですけど、その中で、「おしゃれな人って狭量じゃん」って言ういいセリフがあるんですよ。

要はおしゃれな人って、自分のおしゃれさを保つことのために、例えば横にいる彼氏がおしゃれじゃない恰好をしているとちょっと嫌な気持ちになる。

それ自体、「排除」というと強い言葉になるんですけど、人を許せないということに通じていたりしますよね。

おしゃれすぎる、ということが、判断を狭めるとか、その分狭量になっているというか。でも、お店はそれでいい面もあって。例えば、おしゃれなお店は、そういう人に来てほしいんです、というメッセージを発している。だからこそファンダムを作るというか、そういう趣味の人たちがそれこそクラブ的な場所として、狭量とも言えるお店があっていいと思います。

例えば書き手も、自分の世界観を全面的に出して、その世界観を受け取れる人に好きになってもらうという幸せなコミュニケーションってたくさんあると思う。でも、一方で、やはり自分が目指している公共性、あるいはもしかしたら書店に自分が求めているものも、ある意味ちょっとダサいくらいが入りやすいのかもしれない(笑)

すごく言い方が難しいですが……。

 

朱:わかります。隙が必要ですよね。余白と言うべきかな。

 

三宅:そうなんです。自分のあり方、どうしたらいいのかも含めて、「美的とは個人的である」ってすごくわかる。

誰かが入れる隙間があるほうが、場所でもお店屋さんでも、ちょっと入りやすい。

コンクリート打ちっぱなしの場所って入りづらい、みたいなところにも通じることがある。……なんてことを1年半ぐらい考えていたので、この話ができて感動しています。

 

朱:まさにその話をしたかったんです。しかもこれは何重にも入れ子構造があって、この話をまさに三宅さんとか僕とか、ちゃんと服装とか外見に気を使っている感じになってる、表現したい内面がある感じになってて、それを美的に打ち出すことに何も衒いがないように見えるっていう人がするから、機能しはじめるということもあって。

多分そこで通底するのは、三宅さんも僕も服とか美的、趣味的なものが好きだということはあると思うんです。

だけど人前に出るときに着る服って全部、基本的にはその場のためにとか、人のために着るものじゃないですか?

 

三宅:そうなんですよ。モードすぎる服って、ちょっとまた違う方向ですよね。かっこいいんですけど。

 

朱:三宅さんは、見せ方とかを考えていらっしゃいますよね。華美さとか、自分がファッショナブルにするということじゃなくて、「どう見せるか」の方に軸足があって、僕も完全にそっちなんで。その意味で何か通じるものがあるというのはありましたし、だからこそ、何かそれに気を使いすぎているように見えるというのは、むしろ人を阻んじゃう、狭量なんだという話であります。

 

 

・3

 

 

 

◆プロフィール

朱 喜哲(ちゅ・ひちょる)

哲学者。1985年大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。著書に『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)、『バザールとクラブ』(よはく舎)、『100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』(NHK出版)。共著に『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『世界最先端の研究が教える すごい哲学』『在野研究ビギナーズ』、『信頼を考える』(勁草書房)など。共訳に『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(ブランダム著、勁草書房)などがある。

三宅 香帆(みやけ・かほ)

文芸評論家。1994年高知県生まれ。京都大学人間・環境学研究科博士前期課程修了。京都市立芸術大学非常勤講師。天狼院書店京都支店長、リクルート社を経て独立。小説や古典文学やエンタメなど幅広い分野で、批評や解説を手がける。著書『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書。新書大書2025受賞作)『娘が母を殺すには?』(PLANETS)等多数。

 

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