朱喜哲さん×三宅香帆さんスペシャルトーク(5)書くこと・文体・スタイル 2

朱 喜哲さん(以下朱):ちょっとねじれた話をしますけど、ここまで話したように三宅さんご自身はいろいろな文体を獲得してきて、それを使い分けていいんだと思える人だからこそなのか、今回の選書には結構切実なタイプの文体を持った本が多いように思ったんです。

ハン・ガンさんの『菜食主義者』や、奈倉有里さんもそういう感じがあると思うし、この辺の選書の意図とか、塩梅みたいなことは教えていただけますか?

 

三宅 香帆さん(以下三宅):そうですね。私的なものと公共的なものというのがお題になっていたのもあるんですけど、私的なものに閉じやすい文章って、意外とその切実さが生まれづらかったり、ある意味社会的な問題、切実な問題を扱っているものだからこそ、それが自分の私的なものと通じ合っている、そこにトンネルがあるからこそ、切実な文体になる、みたいな本がもしかしたら多いのかなと思います。

 

朱:なるほど。それでいうとまさに上間陽子さんの『海をあげる』がそうですよね。

 

三宅:そうですよね。私的な話から、本当に極めて公的な話になる。沖縄の米軍基地によって、センター試験の模試を受けるときに米軍基地の飛行機の音がうるさくて勉強に集中できないと葛藤する高校生の話があって、それってすごく私的な問題として誰もが理解できるじゃないですか。それがどれだけ辛いか。テストの時に、全国一斉模試なのに。

自分たちだけ飛行機の音がガンガン鳴っていて辛いというのは、誰もが私的なものとしてよく分かると思うんですけど、でもそこに政治的な、公共的な、公的な問題が絶対あることは誰もがわかる話だと思っていて。

上間さんの文体って、読んでいただいたらわかると思うんですけど、公共的なところから始まるんじゃなくて、本当に私的なところから始めてるんですよね。

 

朱:そう、上間さんの前作『裸足で逃げる』もまたすさまじい本なんですけれども、あの時からさらに、よりエッセイ的になってくるというか、私小説的とさえ言ってもいいかもしれない。

自分の話になってるんだけど、だからこそ自分が生きざるを得ない社会における、まさに公的な問題が、ものすごく切実に迫ってきますよね。

 

三宅:そういう回路がある本も、今回選んだんです。私的なものが溢れて公的なものに行くという人もいますし。でもどちらかというと、公共的なものがそこには問題としてあるんだ、ということを知りながら、私的な話をするみたいな作家さんが結構私は好きなので。

 

朱:確かにハン・ガンもそうですよね。ノーベル文学賞を獲りましたが、『少年が来る』は具体的に光州事件の話を書いているし、済州島で起きた四・三事件を書いた『別れを告げない』とかあります。今回『菜食主義者』を選んだのはどうしてですか。

 

三宅:『菜食主義者』って、韓国のジェンダー、フェミニズム的な女性の話でありながら、身体感覚みたいなところを描かれている。ハン・ガンさんが詩人というのもあるんでしょうけれど、すごく面白い本だな、と思いまして。

 

朱:なるほど。

 

三宅:『菜食主義者』って、最初は摂食障害のような、食事を食べなくなった女性の話から始まるんです。その食べ物の描写とか、食べ物を受けつけないという身体感覚は、すごく私的なものだと思って。食べる食べないみたいな話って、本当に個人的な話じゃないですか。

個人的な感覚から、でも結局はジェンダーの問題であり、国の話であり、世界の話ですよね、と繋がる感じがすごいなと思いました。

 

朱:作家が詩人でもあるからこそ書ける、というのも面白いポイントですね。

今回僕が選んだ中で言うと、向坂くじらさんの著作も、あるいは詩人でもあるからこそ書ける、というところがあると思っています。

芥川賞候補作『踊れ、愛より痛い方へ』では、主人公が自分にしかない、「割れる」という感覚をもっていて、その感覚がある時に、世界を許せなくなって、どうしても怒ってしまうという話です。自分の私的な感覚を「割れる」とずっと表現し続けるんですね。

先ほども紹介しましたけど、ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』もまた、翻訳者の多田智満子さんが詩人でもあり、だからこそ日本語の身体感覚というか、この本は「人生を味わう」ものだから食事とか恋愛とか色々なディティールこそ大事なんですけど、日本語が本当に完璧なのです。僕自身は日本語で書かれたあらゆるテキストの中でもっとも美しいのではと思っているくらいです。それは詩人である多田智満子さんの日本語だからというのがあるなと、腑に落ちました。

 

三宅:それで面白いなと思ったのが、『35歳の哲学者、遺伝性がんを生きる』(著:飯塚理恵)。私も読んだんですけど、意外とこれは逆のタイプで面白い本だと思うんです。

哲学研究されている方って割と抽象的に話をされるのが上手な方が多いですよね。

例えば先ほどの私の言葉遣いみたいな話からじゃあそれはプラグマティズム言語学だ、みたいに、ちょっと抽象的に……。

 

朱:うん、概念化しますよね。

 

三宅:飯塚さんのこの本は、そういう抽象的な議論を得意とする方が、遺伝性がんというものすごく私的な問題にぶち当たった時に、どういう言葉を発するかという本ですよね。

 

朱:飯塚さんは、スコットランドで哲学の学位を取った方です。

今の哲学って皆さんどんなイメージをお持ちか分かりませんが、基本英語圏が中心地になっており、英語圏の哲学というのは、論理的な言語分析を手法とする、いわゆる「分析哲学」と呼ばれる哲学なんですね。

私が主に研究しているリチャード・ローティは、分析哲学というにはややポエティックなところがあるんですけども。

飯塚理恵さんは、分析哲学の本流に近いというか、その一種アスリート的な競争をくぐっていらしている方なんです。その方がまさに自分の個人的、パーソナルで、私的な、そして非常に切実な自分の問題にぶち当たった時に、それと向き合うために、自分が培ってきた哲学のボキャブラリーを携えて、そこに対峙していくんですよね。

それは、さっき話したかったポイントでもあったんですけれど、学問、とくに哲学のような抽象度の高い分野の言葉遣いって、抽象的だからこそ、自分の切実すぎる問題からちょっと距離をとってくれるというか、それを客体的な分析対象にしてくれる面があるんですよね。

学術の言葉を介するから、今自分が置かれた状態の辛い、悲しい、嫌だ、ということをちょっと1周回ってというか、学術用語を介して少し解きほぐしたり、暗黙の内にあるのは何なんだろうというふうに問いを立ててみたりすることで、やり過ごせるようになるんです。

 

ただこの点を逆から言うと、自分自身が当事者性をもった話というのは、哲学のように学術的文体で直接的に扱うことがかなり難しいんですよ。自分の当事者性からはじめるのはわかりやすい手順ですが、研究者としての最初期からそれをやることはあまり推奨できない。

なぜならば、哲学の抽象的な議論をしてるときに、「根拠は私の体験です」ってなってしまうと、相手はもうそれ何も言えなくなってしまうじゃないですか。

だからやはり一人称的な話というのは哲学のなかで扱うのが結構難しいんですよ。

でも、だからこそ、当事者としての境遇をもたざるをえなくなった人が、哲学の言語を学ぶことによって、自分の当事者性とかつらさとか弱さみたいなものを、学術的な語彙を介して喋れるようになったり、それを少し距離を持って取り扱えるようになるという良さがありますよね。

「分析哲学」という、一見してごりごりの論理的で、難解というかソリッドに見える学問をやることにも、実はそんな治療的な効果があるんですよねという話を、同じく哲学者の三木那由他さんと『小説TRIPPER』で連載中の対談記事「抵抗のためのダイアローグ」で喋っています。飯塚さんの本も、その文脈でご紹介したいなと。

 

三宅:今の朱さんのお話を聞いて、本当にまさに『〈公正〉を乗りこなす』の話だなと思いました。

『〈公正〉を乗りこなす』も、結局文体とか言葉遣いの本だと私は思っていて。社会において、例えば正義とか公正とか正しいことは存在しているように見えて、実はそれは運用の仕方とか喋り方とか言葉遣い、どうやって使うかということによって使われ方が変わり得る。

「正しさ」「正義」みたいな、日本語だと少しふわっとしがちなものを、いかに自分の側に引きつけて運用するのか。しかもその根本には、実はちょっと朱さんの個人的な話もあるということが最後に触れられる。正しさについて喋ることによって実はちょっと内面も治癒されている、そんな流れが興味深かったです。

 

朱:ウィトゲンシュタインという哲学者が、「語りえぬことについては、沈黙せねばならない」と言っているんですけど、それは正しい解釈は置いておくとして、やっぱり黙っておいた方がいいことがいっぱいあると思うんですね。

特に自分のパーソナルな話とか、繊細な話はそれを変に表現し過ぎちゃうと、そこによって囚われちゃうという面もあるじゃないですか。

三宅さんの本もまた、ご自身の内発的な動機もきっとあるけれど、書かれるものは常に公共的に書かれているという感じがあるのが、今の話と通じるポイントかもしれません。本当に大事なもの、本当に繊細なものは、むしろいたずらに言葉にしない方がいいんだという感覚が僕は結構あるんですけど、三宅さんも結構そういうことなんだなと、いま思いました。

 

三宅:本当に大切だったり、喋ると傷ついてしまうことって、基本的に人は喋れないんじゃないか、と自分は思っている節があって。

小説家が小説を書く意味も、もしかしたらそうかもしれないですし。自分たちが普通に日常的に過ごしている中でも、よほど語りが上手な人でない限り、基本的に人って大事なことは喋れない。語れないものだなと。語られてないものの方が大事なのではないか、と思ったりはしていますね。

 

朱:そうですね。それを託するとすると、物語的なものとか、何か別の回路を通さないとなかなか表現できないという面もあるかもしれない。

 

三宅:批評家は意地悪な職業なので、逆にじゃあ何でこれを書いていないのかな?とか考えて物語を批評したりしちゃうんですけど。

 

朱:そうですよね。書いたことも大事だけれども、なぜこれを書かなかったか、から生じるものもすごく大事。

 

三宅:物語を書いてて、これが本当は出るはずなのに出ないなーとか、やっぱり気になるポイントなんですよね。書けないものが人にはあるんだ、言えないこととか、出せないものが人には必ずあるはずだ、ということは結構ずっと思っていることかもしれません。

 

朱:面白いですね。まさに今、三宅さんが開示してくださった読み筋、一冊の本とはこういう風に面白がれるんだよというポイントやテクニックがまとまっているのが、新刊『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』ですね。

これは元々、新潮のPR誌「波」での書評連載から来ていらっしゃいますよね。

 

三宅:そうですね。書評というか、ちょっと時評みたいな感じでエンタメを扱うみたいなコンセプトの連載だったんです。

 

朱:実はその中で私の本『〈公正〉を乗りこなす』も紹介していただいたりします。ありがとうございました。

一冊の本になった本書をあらためて手にとって驚いたのは、この本は三宅さんがまさに今おっしゃった「どう本を読むのか」のテクニックや観点を開示する本としてパッケージングされているんですけど、もともと書評の本じゃないですか。

それを、インプット法をめぐる本にしたうえで、私はこういうふうにやっていますよって、いわばサンプルとして自分の書評テキストを位置づける…という一冊ですよね。

 

三宅:そうですね。

 

朱:恐るべき、演者としての自分を、プロデューサーとしての三宅さんがコントロールしているというか、自分で自分を操っている感がすごいなと思って。

これがまさに批評界の「覇王」といわれる三宅さんのセルフプロデュース力か!と慄きました(笑)

 

三宅:そんな方法じゃないと、やっぱり書評とか読んでもらえないかな、みたいな気持ちがあって(笑)

 

朱:そうですよね。素晴らしい。

 

三宅:みんなに批評とか読んでほしいなという気持ちがあるので、どうやったら批評を読んでもらえるかな?と考えたときに、「今回はインプット術にするかな」と。

 


 

 

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