朱喜哲さん×三宅香帆さんスペシャルトーク(6)匿名性と書店の未来 2

三宅 香帆さん(以下三宅):真面目に、書店さんが今後どうあるべきかということは、今の日本にとってすごく大きな課題だと思っています。
やっぱり自分も書店という場が好きだったし、自分はそこに育てられてきたという感覚がある一方で、書店という今までの本とか雑誌を買ってもらう、売るというだけだと、どうしても採算を取っていけないので、今、書店がなくなりつつある。
そういう現状に対して何をしていったらいいのかって、今すごくみんな模索していると思うんですが、その中の一つの「あ、こういうやり方もあるんだ」っていう事例になっている。
朱 喜哲さん(以下朱):本当にそうなんですよね。だから、今日「バザールとクラブ」の話をしていただいていますけれども、この議論構成の大きな問題もひとつあると思っていて、それが何かというと、公共的なものをバザールと言う場合、不可視化されてしまう、見えなくなってしまうものがあって、それはまさに「政府」みたいな話なんですよね。公共性って、本来は政治が担うべきものじゃないですか。
アレントだとそれはちゃんとあるんだけど、要はその分他の生活に追い込まれてしまうのですが、「バザールとクラブ論」の問題って、「じゃあみんな共助でいいじゃん」って話になりかねないんですよ。民間で支え合ってやればいいじゃん、になりかねない部分があって。だからこの話をするときは常に死角としての公共性の話、政治的な公共性の話を忘れないようにしなきゃいけない、といつも思うんです。
そして、今おっしゃっていただいたように、まさに民間でうまく回っていくために、行政・公共セクターが何をできるんだろうというときの、ひとつのモデルケースが八戸にはあるのではないでしょうか。
民間において「バザール」的な面白さと「クラブ」的な魅力がうまく循環しているときに、そのための適切なハコと、空間を持続させるために民間だけでは足りない原資の補填分は公共の予算として出すよ、というのは「公助」の在り方として、この意思決定をし続けている八戸の熟議のプロセスも含めて、学べることがたくさんあると思います。
今も街の書店さんの支援を打ち出したりした政策が議論されていますが、現場からすると「いや、そんなことじゃないんだよ」ということも耳にします。そのとき民間だけでうまくやろうじゃなくて、どう公に頼ればいいんだろうということも大事な論点で、そのヒントもあるんじゃないかなという気がしますね。
三宅:そうですね。出版文化や、本を読んで書くことというと、どうしても私たちはソフトのことだけ考えちゃう。どういう本が今あるのか、どういう本を書くのか、本の中身のことだけ考えちゃうと思うんですけど。
でも実は、それが届く場所について議論するのもやっぱり大切なんですよ。書店というお店がちゃんとあるということであったり、そこに来る人がいるっていうことであったり、あるいはそこがどういう見た目の場所で、どういう装丁のものが売られているか。案外、外側のスタイルのお話もやはり大事。
中身の話ももちろん重要なんだけれども、一方でそれ以外の話って、まだまだされていないよなと思います。
朱:わかります。しかもそれって個人ではなかなかできないことですよね。誰もが個人としてローンを背負ってそんな公共性のあるものを建てられないですから。
そこにやっぱり行政がやるべきことってあるでしょう。
昔批判された「ハコモノ行政」という言葉もありましたけど、やはりソフトとか、人の力とうまくかみ合うんであれば、ちゃんとした「ハコ」を提供するのは行政の役割なんじゃないかなと思うんですよ。
三宅:なるほど。ちなみにローティは公的なものについて言及していたりするんですか?
朱:正直そんなにしてないんですよ。公共的なもののメタファーを「バザール」と言ったとき、そこで消去される「アゴラ(広場)」みたいな市場的ではない公的空間や役割についてはほぼ語っていない。
三宅:それこそアーレントとかと合わせて考えたりとかすると、より理解が深まるかもしれませんね。
朱:最初の方に話したことと通じますけれど、哲学もまた唯一の正しい議論を求める営みではありませんし、やはり哲学者ごとにいいところもあれば問題点もある。それぞれの生きざまがそこにあるし、人生が反映されてきます。
だからこそ一人の人生ではそんなに何人も内側から知ることは難しいんですけど、ある一人の哲学者を「内側から」知ることは、そういうことが他にもあり得るということを知ることでもある。
僕は哲学も含めて、学問を学ぶってある種、複数性というか、他のこともあり得るということを学べることでもあると思うので、それはおっしゃった、外側に発見するんだという話に似ている話なのかなと思います。
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